徳川埋蔵金は見つかった?ない?隠された真相

徳川埋蔵金



徳川埋蔵金は見つかった?ない?隠された真相

徳川埋蔵金
その存在を示す数々の説、その一部とされる品物などの物的証拠がそろっているにもかかわらず、未だ発見されることのない徳川埋蔵金
なぜ見つからないのか、一体どんな真相が隠されているのでしょうか。

宇宙人A
すでに埋蔵金の場所が分かっているなどたくさんの情報が飛び交っているみたいだね。
宇宙人B
そもそも埋蔵金が本当にあるのかも気になるね。
もっと詳しく見ていこう。

未だ発見されない徳川埋蔵金は事実なのか?

徳川家康
300年近く続いた徳川幕府も、新たな時代の波に押されてその終わりを迎えようとしていたその時代。無血開城という選択をした江戸幕府の御用金は、新たな時代を切り拓きつつも財政難にあえいでいた明治新政府の資金源として期待されていたものでもありました。

しかし新政府軍がいざ城の金蔵を調べてみれば、そこにあるはずの幕府御用金は見る影もなく・・・。そのため「幕府が隠匿した」「幕府の財政責任者である小栗が持ち逃げしたのだ」といったウワサが流れ、新政府軍は幕府御用金の捜索に乗り出します。

そんな新政府軍の捜索にもかかわらず、結局見つからずじまいとなった幕府御用金。この否定的な説によれば、そもそも当時の江戸幕府にそんな金があったはずがないとも言われています。

にもかかわらず、

・ほかに命にかかわる刑罰を受ける者のなかった幕府側の処分者で唯一、勘定奉行であった小栗忠順が斬首刑になっていること
・利根川を遡って何者かが船で赤城山中へ何らかの荷物を運びこむのを見たという証言がある

といった理由から、今なお「徳川埋蔵金は存在する」と信じられ、さまざまな人や団体の手によって捜索が試みられています。

赤城山はデコイ?徳川埋蔵金の真の埋蔵場所

赤城山
徳川埋蔵金の真の埋蔵場所として、現在のところ最有力とされている、赤城山埋蔵説。
そのため、赤城山はこれまでにも数々の捜索が行われてきましたが、にもかかわらず未だに発見されることなく、捜索が終わっている場所でもあります。

このため一部では、「赤城山は真の埋蔵場所を隠ぺいするためのおとりである」とも考えらえています。

徳川埋蔵金の埋蔵場所「赤城山」説

発端は「船で利根川から何者かが赤城山中へ何かを運び込むのを見た」とされる当時の地元民の証言とされる、赤城山埋蔵説。赤城山は、埋蔵金計画に深くかかわったと目される小栗忠順の故郷でもあります。

徳川埋蔵金が存在していると考えられるのには、その一部だとされる証拠が発見されているからでもあります。明治23年に古井戸から発見された黄金像、同じく銅製の燈明皿、そのほかにも数々の徳川が所有していたであろうお宝の一部が発見されてきました。
そしてその黄金像や燈明皿は、なんと、赤城山で発見されているというのです。

徳川埋蔵金に絡んで度々その名前が挙がる、赤城山。

しかし何度となく大がかりな捜索が行われている場所であるにも関わらず、結局今になってもその赤城山からは小判1枚見つかってはいないのです。そのため、一部ではこの赤城山説は真の埋蔵場所を発見されないための罠、ダミーであるとする向きもあります。

財宝隠しのセオリーとして、わずかな財宝(あるいはらしきもの)を置いたダミーを作り、さもその付近に隠されているかのような信憑性のありそうなウワサを流布して情報をかく乱し、本来の所在の発見を防ぐというのがあります。

実際に赤城山説には

条件
・まことしやかな根拠
・一部と思われるわずかな財宝

という、財宝隠しのためのダミー条件が既に揃っています。

この点と、度重なる捜索に反して小判の1枚も発見されていない状況から、赤城山はダミーであるとする説があるのです。

増える捜索ポイントと「かごめかごめ」の謎

有力とされるにもかかわらず、一向に埋蔵金の発見されない赤城山。そのことからも、実は赤城山ではなく別の場所にあるのだとさまざまな捜索ポイントが候補に挙げられています。
かごめかごめ
画像参照:http://www.kande.info/kagomekagome1.htm
そんな徳川埋蔵金の埋蔵場所について話題になるとき、有名な候補としてよく上がっているのが「かごめかごめ」にそのヒントがあるとされる説です。

確かに何かの謎々のようにも聞こえる、かごめかごめの歌詞。
そもそもその「かごめかごめ」というフレーズは「籠の目」を指しているといい、籠の目の形状はといえば、関東の徳川所縁の寺社などを線で結んだときの形状と同じ、六芒星。

「籠の中の鳥は」とも聞こえるフレーズは、「籠の中の鳥居は」であり、地図上の六芒星の中にある鳥居とはつまり日光東照宮のことである、とされています。

その後に続く「夜明けの晩に滑った」鶴と亀。

日光東照宮には鶴と亀の銅像があり、その銅像が朝陽に照らされるとき指す方向には、徳川のお墓が。さらにその後ろには祠があり、その祠に刻まれた印は一見六芒星に見えるものの、一部が欠けている・・・。

その六芒星の欠けは上部、つまり「この下」を示す矢印の意味なのだというのです。

このことから、「徳川埋蔵金はかごめかごめの唄になぞらえて日光東照宮に隠されているのだ」という説が存在します。

またこの説にはひとつ面白い話があります。それは、そこまで明確にされていながらなぜ発掘されないのか?というその理由についてです。

政府すらも了承しているという徳川埋蔵金の埋蔵場所、それでもそこを捜索しない理由は、万が一にも金品と合わせて何らかの歴史的証拠となるもの、とりわけこれまで定説とされてきた歴史を覆すような文献でも出てきてしまったら大変なことになるかも、という懸念があるからだというのです。

よほど今の日本政府や「どこかの誰か」にとって不都合な歴史でも隠されているというのか・・・。誰かが埋蔵金を探し当てたとすれば、そのこと自体よりも新たに発覚した歴史上の事実の方が、センセーショナルな話題になる可能性もあり、興味のそそられるポイントですね。

徳川埋蔵金は「国外に持ち出された」?

徳川埋蔵金
画像参照:http://www.recordchina.co.jp/b123179-s0-c10.html
埋蔵場所の候補は挙がっても、そのいずれからも未だ発見されることのない徳川埋蔵金。

蔵番であった役人たちをいかに厳しく尋問しても、ようとして知れなかった徳川埋蔵金の行方ですが、新政府軍による御用金探しが始まって間もないころに国外に持ち出されていたのだとする説もあります。

江戸城の無血開城からわずか5日後の夕方、ある1隻の蒸気船が中国上海に向け横浜港をひっそりと出港しています。

ブルガリアの国旗を掲げ、甲板を外国人乗組員が行き交う蒸気船。
開国後の横浜港とすれば、特段不自然さもないはずのその蒸気船の出港、しかしそこに、後に徳川埋蔵金と呼ばれる幕府の御用金400万両が積まれていたとされる説があるのです。

その外国船と思われた蒸気船ですが、実は仙台伊達藩の所有する「早丸」という軍船だったのです。早丸はイギリスで建造されたのち、アメリカの南北戦争を経て1867年に仙台伊達藩がアメリカから12万ドルで購入したもの。宮城丸とも呼ばれ、兵や武器の輸送に用いられました。

ブルガリアの国旗を掲げて出港したその蒸気船は早丸であり、外国船を偽装して400万両の幕府御用金を秘密裏に運び出していたのだ、というのです。

早丸の所有者である仙台藩は、戊辰戦争の時点では当初幕府とは敵対する立場にあったはず。後に立場を変えたとはいえ、その仙台藩がなぜそのような任を幕府から与えられたというのでしょうか。

そこには、仙台藩主であった伊達慶邦が迎えた継室が、15代将軍慶喜の実妹であったことが理由として考えられています。

そして、その早丸が向かったであろう中国は上海の地に徳川埋蔵金は隠されている!

そういいたいところですが、この早丸、夕方に秘密裏に横浜港を出たあと、夜間の見通しの悪さなどから暗礁に乗り上げ三浦半島付近で沈没。早丸は今なお、海底に沈んだままだと言われています。

否定される徳川埋蔵金伝説

何度となく大がかりな捜索の手が伸びているにもかかわらず、未だ発見されることもなく謎に包まれたままの徳川埋蔵金。
当然いくつかの否定説・架空説も囁かれています。

江戸幕府財政難による否定

徳川家康に始まり、15代徳川慶喜まで続いた江戸幕府。
しかしその財政は、5代将軍綱吉の時代から早くも傾き始め、度々貨幣改鋳を行わなければならない事態に陥りました。

以降も新井白石による正徳の治、8代将軍吉宗による享保の改革など何度となく財政改革を重ね、実はその長い歴史の中で財政は改善どころか悪化の一途を辿るばかりという状況のなかで存続していた徳川幕府。

そんな徳川幕府だけに、15代慶喜の時代には首の皮一枚の自転車操業状態であった可能性すら考えられます。しかもそこへ、連発した大地震も重なり、当時の幕府は困窮を極めていたとも言われています。

このことから、徳川にそんな多額の埋蔵金を残せるだけの資金が元よりあったはずがない、とするのが江戸幕府の財政難による徳川埋蔵金否定説です。

確かにその状況を考えれば、存在の有無はともかく果たして言われているほど「多額」であったのか、という点は少なくとも怪しくなってきますね。

首謀者「小栗忠順」の幕末

小栗忠順
新政府軍による幕府御用金の捜索が行われていたころ、その御用金を持ち逃げし隠匿したというウワサも流れた勘定奉行、小栗忠順。しかし史実として残されている彼の行動・功績は、そのウワサの真偽を危うくするものばかりです。

長い鎖国の時代を経て1854年の日米和親条約を皮切りに開国した日本。
日米修好通商条約批准のため米艦ポーハタン号で渡米していた小栗忠順は、そこから少し経過した1860年に帰国し、以後幕府の財政再建に取り組む傍ら洋式軍隊の整備や横須賀製鉄所の建設などを行います。

その横須賀製鉄所建設では、小栗忠順によりフランスの技術者レオンス・ヴェルニーに多額の資金が委ねられました。その資金は横須賀製鉄所だけでなく、観音崎灯台や走水水源地等の整備にも使われ、それでも余剰となった分を後にヴェルニーは明治政府に返還しています。

このことからも、当時ヴェルニーに委ねられた資金が、巨額と表現すべきかなりの金額であったことは想像にも難くありません。
さらに、それと同じ時期、幕府は軍事力増強のために大量の武器や軍艦を購入しています。

それらを取り仕切っていた小栗忠順の行動・功績、それにまつわる史実。果たして財政難を極めていたとされる徳川幕府にあって、言われているような埋蔵金を彼や幕府に捻出することが可能であったのか・・・。その信憑性は、いささか根拠に乏しいと言わざるを得ないでしょう。

徳川埋蔵金の真相はどこに?

隠されたという当時から候補として挙がっている赤城山
そして日光東照宮に、三浦半島付近に今なお沈んでいるという蒸気船「早丸」。
そのほかにもいくつかの埋蔵場所の可能性が指摘されていながらも、発見されることなく現在に至る徳川埋蔵金です。
ひどい財政難であったという徳川幕府にそんなものが捻出できたわけがないとする説もありながら、太平洋戦争直後の日本軍がそうであったように、幕府にも表沙汰にされることなく秘かに備蓄されていた財産があったに違いないと否定説・架空説を覆す話もあります。
埋蔵場所とあわせて、存在そのものすらも謎に包まれている徳川埋蔵金。
その隠された真相に辿り着いたとき、果たして「ただ古い時代の金品が大量に見つかった」というだけの話で済むのか否か、実はとてつもないセンセーショナルな事実が一緒に見つかるのではないか・・・。
そんなところも、徳川埋蔵金に関心を惹かれる人が多く、大規模な捜索が度々行われる理由のひとつでもあるのでしょう。

まとめ
徳川埋蔵金には、様々な説が家具多く存在し、有力な情報もかなり揃っていると考えられる。
その中の説で最も有力に考えられるのは徳川埋蔵金の場所はすでに分かっているというもの。
埋蔵金の場所は、埋蔵文化財包蔵地と呼ばれる発掘を禁止されている土地にあり、また、国がその埋蔵金を掘り起こさない理由として歴史が大きく変化し、有価物の価値が大きく変わってしまう事が考えられている。
宇宙人A
徳川埋蔵金伝説には歴史を歪めてしまう事を考えられ懸念されているんだね。
宇宙人B
今までの埋蔵金とは比べ物にならない金額というのが大きいみたいだね。
画像参照:https://ja.wikipedia.org/



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